文化財は守れるのか?
私は、何を目的に、どのように行動したかを、反省を含めて紹介することにします。
一月一七日、神戸市東灘区の魚崎の自宅で寝ており、震度7の激しい揺れを体感しました。最初、近くの高校に避難し、それから大阪に移りました。三、四日して家族が落ち着いてから、やっと文化財がどうなっているか考える余裕ができたというのが実情です。
最初に行動したことは、震災から一○日ほどのちに、神戸市内の美術館・博物館を自転車で一時間ほどかけてみにいったことです。神戸市立博物館に着いたとき、学芸員も二、三人出勤されていて、地下にたまった水をポンプで排水していました。とても博物館を開くような状況ではありませんでした。早い場所では倒壊した高速道路の解体が始まっていましたが、付近の神社なども壊れており、神戸全域がやられたのではないかという感じをうけたものです。
実際に調査で街を歩いた際、真っ先に目にはいってきたのは建物の被害です。市内には九棟の国指定重要文化財がありますが、六棟が被災しました。被害は、調査にあたった文化庁建造物課の亀井伸雄さんによると、明治時代の洋風建築で、煉瓦積みの煙突が建物の上に倒壊し、屋根から内部にかけて損壊したものが多数みうけられたそうです。これらは、幸い修理後も指定が継続されることになりましたが、兵庫県指定文化財の建造物二棟のように、被害が大きすぎ、再利用可能な部材が不足しているため指定が解除されたものもあります。これは木造二階建て瓦葺きの大きな建物でした。
美術工芸品については、ほとんどが博物館や美術館内部に保管されているので、建造物と比較すると、被害は多くありませんでした。しかし、転倒し破損した石像品の例も報告されています。また、兵庫県東部の川西市栄根寺では、木造の仏像本体には異常がほとんど観察されなかったものの、安置された御堂が倒壊寸前になり、ほかの場所へ全点移動されました。このような例もあります。
1985年頃の菊正宗酒造記念館埋蔵文化財は地下に埋まっているため、被害の状況については不明な点が多くあります。しかし、地震による直接的な被害よりもむしろ、遺跡の上に載っている倒壊建物の撤去と、これに続く新たな建物の建設工事などにより、二次的に発生する発掘調査の問題のほうが、遺跡の保存・活用の問題も加わり、より深刻だと思います。(以下本文へ)