遺物の保存と調査
有機遺物の保存と調査
はじめに
1628年8 月10日、処女航海への日、祝砲が放たれ、好奇心に満ちた多数の民衆がストックホルム港に集まり、盛大な儀式が挙行されました。船には王城で120トンのバラストが積み込まれ、総勢450名の兵士や乗組員のうち100名が乗船し、残りは船が群島海にでたところで乗り込むために待機していました。
ヴァーサ号は10枚の帆のうち4 枚をあげて出港したのですが、保護区域をでたとき強風が吹き、船体は右に大きく傾き、砲門口から海水が流れ込み始めて、たった1,300m進んだだけで水面下に姿を消してしまいました。ヴァーサ号の船首があまりに重く、かつ船体が細かったことによる不安定さが大災害をもたらした原因です。ちなみに、この大惨事で30〜50名が溺死しました。
その後、17世紀に、貴重な青銅製の大砲のほとんどは引き揚げられましたが、それ以降、この難破事件は世間から忘れ去られていました。
1. 引き揚げ
1956年にひとりの技術者アンデルス・フランツェン(Anders Franzen)が、何年もの年月をかけて公文書を調べ、ストックホルム港の海底を引っ掛け錨と測深線で探索して沈没場所を特定するまで、300年以上もヴァーサ号は忘れられていました。その翌年、潜水夫たちが最高級の豪華な工芸品類を引き揚げたことが契機となり、「ヴァーサ号を救え」という熱烈な運動が起こり、財団や民間企業が引き揚げるための費用や器材を寄付するようになりました。もちろん、スウェーデン海軍も人員やボートを供与して、多大な貢献をはたしました。
ストックホルム港の海底の泥と砂利のなかに沈んでいるヴァーサ号を引き揚げるため、海軍の潜水夫たちは、ホースで送水して船体の下にトンネルをあけるようにしました。この作業は完全な真っ暗やみで進められたため、必要な6 本のトンネルが完成するまでに2 年間を要しています。このトンネルを使って船体の下にケーブルがわたされ、海上の水を満した平底船に接続されました。この平底船はその水を汲みだすことにより、ヴァーサ号とともに浮上し始め、その後、16段階を経て浅い場所へ移され、1961年4 月24日、ふたたび多数の見物人たちの前に姿を現しました(図1)。
2. ヴァーサ号の保存
32mの深さから引き揚げるとき、船体の強度を綿密に計算したにもかかわらず、船体が外力に耐えられるかどうかは定かではありませんでした。建造に使われた鉄製ボルトのほとんどが錆び、船は船体に通された無数の木製ボルトでつなぎ止められているだけであったためです。(以下本文へ)