遺伝子制御による「選択的シナプス強化・除去」機構の解明
はじめに

 脳のはたらきを理解することは、21世紀に残された自然科学の最大のフロンティアのひとつである。そのなかでも、学習・記憶の仕組みの解明は人間が人間である所以を理解することに直結するばかりでなく、急速に進行する高齢化社会におけるさまざまな脳神経疾患の予防や治療への応用という点からもきわめて重要な位置を占めている。
 脳の神経細胞どうしは多数のシナプスによって連絡しあい、複雑なネットワ−クを形成している。シナプスでは常に一定の強さで情報伝達がなされているのではなく、使用頻度に依存してその伝わりやすさが長期的・短期的に変化しうることが知られており、この現象をシナプス可塑性と呼んでいる。成熟動物の脳においては、特定のシナプスが強まったり、逆に弱まったりすることが記憶や忘却の基礎であると考えられている。発達期の脳では初期に過剰なシナプス結合がつくられ、やがて不用なものは除去され、必要なものが強化されて成熟した機能的シナプス結合がつうられていく。また、外傷や疾病によって脳が損傷された場合にも、残された神経細胞間のシナプス結合の改変により、脳はかなりの程度までその機能を回復し得る。このような柔軟性が脳の機能を支えるもっとも重要な特徴であり、その基盤を成すシナプス可塑性の機構解明が、学習・記憶の理解のために不可欠である。1個の神経細胞には数千〜数万という多くのシナプスがあるが、重要なことは、可塑的変化はこれらすべてのシナプスに一様に生じるのではなく、ある活動を経験したシナプスにのみ特異的に生ずるということである。言い換えると個々のシナプスが独立に情報を蓄え得るということであり、このようなシナプス選択性によって、脳は無限に近い記憶容量をもち、さまざまな環境変化に適応する多様性をもつことができるようになる。もう1点重要なことは、シナプス可塑性は多くの場合一生涯持続するようなきわめて長期に及ぶ変化であり、したがって寿命がかぎられた機能蛋白質のリン酸化のような変化では説明できないことである。当然のことながら、遺伝子発現と新規蛋白合成を必要とすると考えられている。神経細胞の樹状突起において局所的な蛋白質合成が行われるという実験事実が積み重ねられてはいるが、これによって長期のシナプス可塑性に必要な蛋白質がすべて賄われているとは到底考えられない。多くの蛋白質は細胞核の遺伝情報をもとにして細胞体で合成され、変化すべきシナプスのある部位に選択的に輸送されるのだろうと考えられるが、その分子機構はよくわかっていない。このような「選択的シナプス改変」の仕組みを解き明かしてこそ、記憶・学習の理解が格段に進展し、この分野の研究に新たな展開が生まれるものと考えられてきた。
 今から5年前に、このような問題意識を共有する7名の神経科学者(狩野、井ノ口、橋本、真鍋、畑、溝口、高橋)が集まり、強力なグループをつくることによって研究を格段に進展させるために、科学技術庁(現・文部科学省)が公募していた「科学技術振興調整費による目標達成型脳科学研究」に応募することになった。私たちが設定した研究課題は、「遺伝子制御による選択的シナプス強化・除去機構の解明」というたいへん野心的なものであったが、幸運にも脳科学委員会の先生方に高く評価していただき、平成12年から16年までの5年間のプロジェクトとして採択された。この間、各リエゾン研究者のグループはお互いに協力し合いながら精力的かつ着実に研究を推進し、平成14年11月の中間評価において高い総合評価を得ることができた。本書はその後2年間の研究の進展を踏まえて、各研究グループの5年間の研究成果をまとめていただいたものである。本研究プロジェクト開始前の状況と比べると格段に研究が進展し、私たちの設定した個別目標はほぼ達成できたといえる。しかし、同時に新たな疑問点も次々と生じてきており、シナプス可塑性の分子機構を明らかにし、記憶・学習の仕組みを解き明かすまでにはまだ長い道のりが残されているという感が強い。本書を2005年初頭における最先端のシナプス可塑性研究の記録として、この分野の研究の一里塚にしていただければ幸いである。
 最後に、私たちの研究提案を目標達成型脳科学研究として、採択・推進・支援をいただきました脳科学委員会の諸先生方、科学技術庁(現・文部科学省)ライフサイエンス課の皆さま、および関連する諸先生方、皆さま方に厚くお礼申し上げます。