文化財の保存と修復 8−九州の文化財
九州国立博物館 三輪 嘉六

 本日は、日本の文化財の保存の流れのなかで、九州がどのように位置づけられてきたか、文化財保護の制度的流れを通じて探ってみたい
と思います。
 文化財の保存については、江戸時代以前からも相当な努力が払われてきました。奈良時代から、文化財という理念があったかどうかは別として、古いもの、先祖代々伝わったものを大事にしてきたのが日本文化の特色のひとつと考えています。ここでは、日本が本格的な制度として文化財保存に取り組み始め、展
開していくなかで、どのように位置づけてきたかを九州を中心にみてみたいと思います。
文化財保護制度の変遷
 日本の文化財の保存制度の展開を考えるうえで、明治元(1868)年をしっかりと位置づける必要があります。この年を境に、武家政治からいわゆる朝廷政治へと変化します。いわゆる王政復古です。封建的な武家政治そのものが大きく変化しますが、正確には慶応年間の最後の年に『神仏分離令』が布告されます。それまでは、文化が宗教をもとに形成されていく部分を重視すると、日本の文化はどちらかというと神仏習合です。たとえば、隣の天満宮も天台宗の仏寺と一緒に共存していました。仏教文化が日本に伝来する6世紀中頃以前、弥生時代以来の宗教的・信仰的な展開がまさに習俗と一緒になり、近世に至るまでひとつの寺院・神社のなかに、お坊さんと俗人である神官が混在する状態が続きました。しかも、寺院が優位にあったわけですのでこれをわかりやすくいうと「寺社」と表現しています。「社寺」というのは現代の表現で、明治時代以前までは、奉行所の名前は「寺社奉行」というように寺が先におかれています。それが、『神仏分離令』以降、神社と寺院との位置づけが逆転したわけです。
 この流れは、欧米の文化がはいってくる流れと一体化します。文明開化によって西欧の文物が積極的に日本にはいり、それらの文物はすべて素晴らしいというような崇拝に似た現象が起こりました。それと同様の状況は、ちょうど戦後のある時期にもみられました。敗戦後、米国からはいってくるチューインガム、チョコレートを求めた風景と重なってみえます。
 文明開化で代表されるように、明治時代はどちらかというと西欧の文物に魅力を感じ、それを謳歌しています。第1回万国博覧会がパリで開催され、このパリ万博に日本も参加しています。また、明治6(1873)年にはウィーン万博が開催されます。一方では日本国内でのブームとして、西洋文物がさかんにはいってきますが、それを尊重し、憧れるというのが社会的な風潮でした。それによって必然的に、国内では旧物破壊主義的な風潮がでます。古いものは価値がないという考え方です。たとえば、奈良の興福寺の五重塔を壊そうというようなことも起こりました。そこで目指したことは、五重塔に使われている銅釘の採集です。また、鎌倉の大仏を米国に売ってしまおうという動向もありました。彦根城でもそのような風潮がありましたが、幸いなことに、当時の識者の反対などによって実行されませんでした。しかし、寺院が所有していた天平写経などが荒縄にくくられ、道端で叩き売りされたり、多くの仏画や仏具もほとんどが放置されました。このように廃仏毀釈の風潮が大きく動いています。仏教文化を排撃するような流れが社会を風靡するわけです。
 しかし、日本では仏教に基づく多くの文物が、文化として位置づいております。ヨーロッパ文化を考えるときキリスト教を除くことはできないのと同じです。また中近東の文化を考えるとき、イスラム教を除いては考えられません。