古代はいま−よみがえる平城京−
 私ども奈良文化財研究所はさまざまな研究事業を展開していますが、そのなかでかなり大きな部分を占めているのが平城京と藤原京、そして藤原京の直前の時代の飛鳥地域にある宮殿や古代の寺院の発掘調査・研究です。ここで「くれないはうつろうものぞ」をお話しされる深澤芳樹さんは飛鳥・藤原京の発掘調査の責任者ですし、私は平城京の発掘調査の統括役をしています。
 さて、平城宮でもっとも重要な建物であった大極殿の実物大の建物の復元が平成22年(2010)4月23日に完成しました(図1)。この日は旧暦でいうと3月10日です。和銅3年(710)3月10日は、藤原京を棄てて新しい都・平城京に遷都した日です。時の天皇は女帝の元明天皇です。
 平城京は、奈良盆地の北端に位置しています。一面に水田が展開している豊かな田園地帯に忽然として人工的な巨大な都が出現しました。なぜ、1300年前に平城京が建設されたのでしょうか。なぜ、平城京は建設されなければならなかったのでしょうか。
 奈文研は平城京跡や飛鳥・藤原京地域の発掘調査を、この50年間、営々と続けてきました。その成果を踏まえて、平城京遷都の意味を問い直したところ、従来の教科書的な、あるいは一般的な平城京遷都についての説明とは違う、新たな歴史像が浮上してきました。そのことについて本日はお話しします。

平城京は天皇の権力・権威を誇示する政治的な舞台装置
 図2は、昭和49年(1974)に製作された、平城京の1000分の1の復元模型です。それ以後35年間、発掘調査、研究もそれなりに進んでおり、修正しなければならない部分がたくさんありますが、おおむねこのようなイメージであることは間違いありません。この都市全体を「平城京」といいます。
 平城京の北の端の中央に平城宮があります。ここには当時の国家のもっとも重要な建物である大極殿があり、また、天皇や皇族がお住まいになる内裏(だいり)、国家的儀式を行う広大な朝堂院(ちょうどういん)、さらに、大蔵省、太政官など国レベルの官庁、役所が配置されていました。古代の都は、都市部分と王宮部分から構成されることが重要なポイントです。 『続日本紀』や『日本書紀』では、都全体を指し示す「都城(とじょう)」という言葉に対して、宮殿部分を「宮室(きゅうしつ)」と記していますが、今日は宮室を「王宮(おうきゅう)」と呼びますのでご承知おきください。
 「都城」とは中国に由来する言葉で、本来の意味は「城壁で囲まれた首都」のことです。この城壁を「羅城(らじょう)」とも呼びます。「羅」は「めぐる」と訓じます。もう一点、基本的事項として、平城京や平安京のような正確な四角形をした都城を、私は「矩形都城」と呼ぶことにしています。この矩形都城は中国大陸の都城のなかでも実は希有な存在で、日本古代の矩形都城は、あとでお話ししますように、唐の都城である長安城が規範となっています。
 平城京は基本的に南北に細長く、南北が九条、東西が八坊、つまり八対九の縦に長い長方形を基本形とした矩形都城です。この平城京には東側に張り出した区画があります(仮に外京(げきょう)と呼ばれていますが、私は「京東坊」という呼称を秘かに考えています)。そこには当時もっとも勢力のあった貴族の藤原氏の氏寺である興福寺が建立されました。というよりも、ここに興福寺をつくるために、張り出し部分を設定したと考えています。この一帯は春日山地の西麓にあたる丘陵地で、高燥の地という好条件下にあり、しかも京内でもっとも高い場所でもあります。天皇の居所である平城宮の内裏ですら見下ろすことのできる、なんともおそれおおい場所だったのです。平城京遷都前後の時期の藤原氏のトップは、大化の改新の中心人物である藤原鎌足の次男、藤原不比等です。平城京遷都は当時の政権の最高実力者であった藤原不比等(ふひと)により推進されました。あとでもう一度触れますが、私は、平城京は「不比等の都」だと考えています。
 ここで、東西4.2キロメートル、南北4.7キロメートルほどある平城京の広さを実感していただくために、東京の地図に重ねてみます(図3)。平城宮の正面玄関にあたるのが朱雀門、都全体の入り口にあたるのが羅城に開く門という意味の羅城門です。この二つの門を朱雀大路という幅75メートルのメインストリートがつないでいます。朱雀門を皇居の桜田門に重ねると、羅城門はJR田町駅付近になり、赤坂の東宮御所は都の西の少し外側に、東の張り出し部分の外側に墨田区の清澄公園が位置します。現在の東京23区に比べればそんなに大きくありませんが、当時の規範からすれば、とてつもなく大規模な人工都市です。なぜ、そんなに巨大な都市を建設したのでしょうか。
 京全体の大きさだけではありません。平城宮内の宮殿建築も大規模なものでした。たとえば、第一次大極殿は東西が約50メートル、高さは8階建てのビルに相当する壮大さです。この大極殿の南側にある朝堂院の殿堂は長さが100メートルを越える瓦葺き建物でした。
 このように、古代の都城は巨大さをことさらに強調して表現すべきものであったのです。つまり、平城京だけでなく、その模範となった中国・唐の長安城もまた、皇帝(天皇も日本の律令では「皇帝」であると規定されていました)あるいは国家の権力・権威を誇示する政治的な舞台装置として建設されたものであったのです。
以下、本文に続く。