脳を知る・創る・守る 2
I章 特別講演
哲学者にとっての脳と脳科学者にとっての脳の現実基本的に人間のすることは脳のすることであるということは、ほとんど常識になっています。そのため、脳死は死と認めてよいという社会ができてきました。この場合、臓器移植が裏にありますが、それでも理論的に裏づければ、死というしかありません。それでよいわけです。しかし、そのことが意味するところは大きいわけです。こうして脳の科学を徹底的に進めていくと、それはすべての科学の基礎となってしまいます。
私は哲学者とよく議論します。私は『唯脳論』を著しましたが、科学哲学が専門の大森先生は『現代思想』に『無脳論』という論文を書かれています。それを読んで「無理のないことである」
という感じをもちました。その理由は、脳はある癖をもっているためです。何が現実であるかをきめてしまうという癖です。しかし、大森先生、つまり哲学者の思考のなかでは、脳は現実ではないようです。この現実という意味が問題なのです。
私はこれまでに何体の脳をとりだしてきたかわかりませんが、少なくとも私にとって脳とは、ある特定の重さと硬さ、触感や匂いをもったもので、特定の部位にあり、あるきまった手続きをしないととりだすことができないものです。それに対して、大森先生にとっては、脳とは言葉に近いものであり、哲学の対象です。その意味で現実感がありません。そのため、哲学者の議論と私どもの1脳と社会東京大学医学部養老 孟司議論とは違ったものとなります。言葉のなかで考えていくと、それが無脳論になることは、ある意味では納得することができます。
学問の基礎が脳科学にあると規定すると、大きな問題がいくつも生じることになります。第一に自分にかえってきます。つまり、脳科学自体が脳の研究であるため自分を除外することはできません。このことは、自己言及の矛盾としてよく知られています。数学ではラッセルの逆理やリシャール数の逆理が知られています。「あらゆるクレタ人はうそつきである」という有名な話です。
このことに関して、最近、河合隼雄先生が『うそつきクラブ短信』という本をだされましたが、その最初に「うそつき島」を探しにいく話があります。うそつきクラブの会長がうそつき島を探すためにいろいろな島を回り、「ここはうそつき島ですか」と聞くと、島の住民が「そうです。ここはほんとうのうそつき島です」というので「これはうそだ」と判定します。そして最後に、そのような島がほんとうに存在するとすれば、無人島しかありえないということになり、会長が無人島にいって「ここがうそつき島である」といって旗をたてて帰ってくると、納得しないクラブの人が「会長が、ほんとうのうそつき島だといったのだから、そこはうそつき島ではない」ということがオチになっています。(以下本文へ)