私と分子生物学
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一.分子生物学の黎明期 私と分子生物学とのかかわりあいを述べる前に、私がその学問を志す少し前の分子生物学の黎明期およびその後の流れについて、簡単に述べてみたい。 分子生物学が何時、どこで誕生したかは定かでない。このような問題を詮索すること自体、不毛であろう。いずれにせよ分子生物学の歴史を遡ると、メンデル(G.Mendel)の法則(一八六五年)に始まる遺伝学にいきつくと考えられる。一方、一八六九年に、ミーシャー(F.Miescher)が核酸を発見した。一九○○年、メンデルの法則がド・フリース(de Vries)によって再発見され、その後一三年にスターテバント(A.H.Sturtevant)によって直線状の遺伝子地図が作成された。また、マラー(H.Muller)はショウジョウバエにX線を照射して突然変異体が誘発されることを示し、さらにモルガン(T.Morgan)によって、いわゆる古典遺伝学が体系化されたといってよいであろう。 この古典遺伝学とは別に、一九四○年代の初め頃から、当時、遺伝子が存在するかどうかが必ずしも明確ではなかった微生物を用いた遺伝学の研究がなされるようになった。もちろん、微生物の世代間が短いため、遺伝学の実験に適しているという背景があったのであろう。そして四四年、肺炎双球菌を使ってアベリー(O.Avery)は、遺伝子がDNAであることを明らかにした。こういった微生物遺伝学の流れのなかから、イタリアから米国にやってきたルリア(S.Luria)、ハーシー(A.Hershey)、レダーバーグ(J.Lederberg)らが現れた。 一方、物理学者のなかにも生物学、特に遺伝学に興味をもつ人々が現れた。有名なオーストリアの理論物理学者シュレディンガー(E.Schr單inger)は、一九四四年『生命とは何か』を世に著し、彼の学派にドイツから米国に逃れてきたデルブリュック(M.Delbruck)がいた。彼らは、おそらく物理学の法則が生物にどのくらい当てはまるかということに興味の出発点があったのかもしれない。 このデルブリュックとルリアとが組んで、大腸菌を宿主として増殖するウイルス、つまりバクテリオファージ(単にファージともいう)を用いて実験を行ったことが、分子生物学におけるマイルストーンとなった。そこにハーシーが加り、たいへんに豪華な研究者たちがファージ研究を始めたのである。これらの人たちが中心になって一九四三年にファージ・グループを結成した。これが初期の分子生物学の中核となった。後年、いわゆる分子生物学の情報学派と呼ばれる人たちの多くが、このファージ・グループから巣立っていった。 ルリアのもとで大学院生であったワトソン(J.Watson)もファージ・グループの一人として研究活動に従事したが、Ph.D.取得後、短期間デンマークのカルカー(H.Kalckar)の研究室にいき(実際の研究はモーレ(O.Maalソe)と共同で進めた)、デンマークを離れる一九五一年に、ルリアの勧めもあって英国ケンブリッジ大学のキャベンディッシ研究室(というか研究所)へ留学した。そこには教授のローレンス・ブラッグ卿(Sir Lawrence Bragg)に率いられるマックス・ペルーツ(Max Perutz)、ジョン・ケンドリュウ(John Kendrew)、フランシス・クリック(Francis Crick)、ヒュー・ハックスレイ(Hugh Huxley)といった、いわゆる分子生物学の構造学派のそうそうたる研究者がいた。そこでワトソンはクリックと運命的な出会いをしたのである。 なお、ワトソンがキャベンディッシ研究室にきてから数か月後、オックスフォードにシドニー・ブレンナー(Sydney Brenner)がきて、それまで低調だった英国の遺伝学は急激に活気づいた。そして、一九五三年、ワトソンとクリックはDNAの二重螺旋モデルを『ネイチャー』に発表した。後にブレンナーもケンブリッジ大学に移ったが、キャベンディッシ研究室はメディカル・リサーチ・カウンシル(MRC、医学研究機関)の研究室となり、そこは単に構造学派だけでなく情報学派的にも、世界的にもトップレベルの素晴らしい陣容を擁した分子生物学の拠点となった。 二重螺旋モデル以後、分子生物学の進展は一気に加速された。DNAの複製や遺伝子の発現と制御の研究が津波のように始まり、大腸菌とそれを宿主とするファージの分子生物学における基本的な問題は、一九七○年代までにほぼ明らかにされた。七○年代後半から八○年にかけて、細胞内に核をもつ生物、すなわち真核生物の分子生物学的研究がさかんになり、それが九○年代のゲノム研究へと発展し、今や分子生物学は分子生命科学といってもよい時代となっている。 なお、こういった分子生物学の黎明期の物語は、日本でも数多くの本ないし文章で紹介されているが、ワトソン著の『A Passion for DNA』と、コールド・スプリング・ハーバー・プレスから出版された『The Origin of Molecular Biology』を推奨したい。 |