文化財の保存と修復
天平文化を今に伝える
文化財の保存と修復
成瀬正和
宮内庁正倉院事務所保存課保存科学室長
ここでは3 つの話題を提供します。第1 は、正倉院宝物は校倉の校木の開閉作用がつくりだす良好な保存環境のなかで保たれてきたといわれますが、実際はどのようなものであったかということです。第2 は、正倉院宝物の修理は100 年以上の歴史をもっていますが、明治時代の修理を中心に、その実例を紹介することにします。第3 は、正倉院宝物の保存に対する現在の正倉院の基本的な戦略についてです。
正倉院は東大寺大仏殿の北西約300 mに位置しています。その明治5 年の風景を図1 に、現在の様子を図2 に示します。正倉院は、総高が9.4 m、間口が33 mという大きな建物です。瓦葺き、総ヒノキの寄せ棟造りで、北倉、中倉、南倉の3 倉からなり、それぞれの内部は2 階造りで、さらに屋根裏もあります。
そこに聖武天皇の遺品と東大寺の仏具など約9,000 点の宝物が伝えられてきました。
ところで、正倉院宝物が1,200 年の長きにわたって保存されてきた理由について、多くの方は次のような話を聞いたことがあるのではないでしょうか。
「校倉には、湿気の高い時期には校木(図3)が膨張して隙間をふさいで、湿った外気を庫内にいれず、逆に乾燥する時期には校木が収縮して隙間が開いて、乾燥した外気をなかにいれることにより、庫内を低湿に保つ作用が備わっている。このことによって、宝物が長く保存されてきたのである」と。
この説を最初に提唱したのは、江戸時代後期の学者・藤貞幹とうていかんであるとされています。建物の調湿作用に着目したのは卓見ですが、その説明を木の隙間の開閉に求めたことは、残念ながら間違っているといわざるを得ません。つまり、外気に対して、庫内での相対湿度の変化が緩和されていたということは事実ですが、結論からいえば、それは木自体に備わった吸放水能による調湿機能に基づくものです。宝物はヒノキ製の建物、いいかえれば、大きな木の箱のなかに納められています。そして、ほとんどの宝物は、庫内でさらにスギ製の唐櫃からびつのなかに納められていました(図4)。つまり、外気に対して、二重の木の箱にいれられていたとみなすことができます。それとあわせて、建物が高床で床下の風通しがよいこと、また唐櫃自体もほとんどは有脚で、床との間に隙間があったことも湿気を防ぐために重要でした。
この庫内の温湿度については、昭和24〜34(1949〜59)年に、大阪管区気象台および奈良地方気象台によって調査が行われました。正倉院は勅封であるため、いったん倉が閉封になると、その後10ヵ月は開かれることがないので、400 日巻の毛髪式温湿度計を特別に製作して温湿度の測定を行ったのです。図5 は、昭和26 年の開封期間中のもので、温湿度計を調整している様子が写されています。(以下本文へ)