第11回「大学と科学」がん研究最前線−研究と臨床の現場から−
はじめに
私は皆さんに、まず“がん”というものを包括的に理解していただくために“細胞としてのがん”“組織としてのがん”および“病気としてのがん”にわけて、がんの自然史を軸にお話してみます。がん細胞が生まれ、がん組織となって病気を起こすまでには長い時間がかかるということ、がんはひとつひとつに個性があるという2 点が、その際、強調したいことです。
細胞としてのがん
受精卵は、短期間に増殖・分化し、ヒトの場合、60 兆個の多細胞からなる複雑でしかも調和のとれた個体を形成します。また、成長した個体では、毎日その2%(1 兆個)の細胞が死滅し、再生していますが、個体の恒常性は維持されています。個体のホメオスタシスと呼ばれる現象です。個体発生も恒常性の維持も、真に神秘的な生命現象です。そこには高次の体制から個々の細胞へのシグナルが存在し、また個々の細胞には刺激に反応するための受容体(レセプター)とシグナルを核まで伝える伝達系があり、さらに全体を統一する微妙なフィードバックのメカニズムがあるに違いありません。
ホメオスタシスの破綻
がん細胞は、恒常性を維持するメカニズムをはずれて増殖・浸潤し、リンパ管や血管を経て他臓器に転移し、最終的には宿主を死にいたらしめます。
がん細胞は、複数の遺伝子変化が段階的に蓄積するなかで生じます。その発生過程には遺伝子変化の種類により、急行と鈍行があります。がん化してからも、時間とともに悪性度がさらに進行する現象はよく見られ、それはがんのプログレッションと呼ばれています。
がん関連遺伝子の機能
過去20 年間のがん研究では、がん細胞の発生に関与する多くのがん遺伝子やがん抑制遺伝子が発見されてきました。研究が進むと、これらの遺伝子の産物のほとんどが、個体発生や生体の恒常性の維持に関与する正負の調節因子であり、その性状や発現の異常により細胞ががん化することがわかってきました。
この破綻の具体的な内容については、これからあと多くの演者から詳細な説明があるでしょう。
がん細胞の発生過程:“がんもどき”はない
大腸がんの発生過程を模式的に図1 に示します。最初、異型度の低い腺腫が生じ、経時的に大きくなるにつれ異型度がまして、その一部に上皮内がんが発生し、その後、浸潤がんに移行します。最初の腺腫の発生に関与しているApc 遺伝子を、1991 年に癌研究所の中村祐輔先生らが発見されました。腺腫のなかに、進行とともにK- ras、p53、DCC などの遺伝子異常が蓄積してがんになります。この過程は、東京都臨床研究所の宮木先生らが精力的に研究されて明らかにしました。
近ごろ「腫瘍は“がん”か“がんもどき”のどちらかである」とMax Borst の古典的性善性悪説を蒸し返して有名になっている先生がいますが、このような腺腫(外見からポリープとも呼びます)は、あくまでも腺腫であって、浸潤も転移もしません。すなわち、“がん”でもがんと区別のつけがたい“がんもどき”でもありません。「腫瘍は“がん”か“がんもどき”である」というような認識は、遺伝子レベルでがんの多段階が明らかにされてきた現在、そもそも存在しえないのです。(以下本文へ)