第11回「大学と科学」縄文と弥生
はじめに
このシンポジウムでは、縄紋(縄文)・弥生文化を特徴づける課題と、それぞれの文化をになう人たちをとりあげ、それに加えて、旧石器(岩宿)から縄紋へ、弥生から古墳へと前後をおさえる一方、アジアの民族学という広い視野から縄紋・弥生文化を位置づけたいと思います。
縄紋といえば、今、三内丸山に関心が集中しています。しかし、以前から有名な秋田県大湯の規模をうわまわる環状列石が土のなかにまだ眠っている(秋田県脇神伊勢堂岱)ことがわかってきました。これについては、林謙作さんから詳しい報告があると思います。また、縄紋時代の竪穴住居の屋根に土がのせてあったことは以前から指摘されているところですが、それが非常によい状態で残っています。しかも、入口の上に天窓まで残っていることから、家の構造をよくつかむことができるようになっています(岩手県一戸町御所野)。
さらに、島根県加茂町の岩倉から出土した銅鐸(図1)が1996 年11 月22 日現在で、38個になりました。鹿児島からは14C 年代で9,000 年前、すなわち縄紋早期の道路跡が発見されています。これは現在たどれる道としては日本最古です。
考古学は明日をも知れない学問であるため、このシンポジウムの開催中にも新しい発見があるかもしれません。
本シンポジウムでは学界を代表する人たちが、最新情報の分析を含めて縄紋・弥生文化を解き明かしてくれることになっていますが、この集いが21 世紀を目指す日本考古学のさらなる研究のひとつの出発点になれば、と願っています。
いろいろな呼び名、いろいろな考え方さて、林さんと私は“縄紋”と書き、ほかの講演者は“縄文”と書いています。シンポジウムの表題や挨拶などは多数決で“縄文”としました。
みんなの考えが一致していない点はそれだけではありません。岡村道雄さんは、縄紋の始まりを13,000 年前と考え、小林達雄さんは12,000 年前と考えておられます。
高倉洋彰さんが縄紋時代晩期ととらえる佐賀県菜畑や福岡市板付下層の水田や福岡県曲り田・那珂などの村跡を、金関恕さん、春成秀爾さんや私は、弥生時代早期(あるいは先・期)ととらえています。また、近畿の研究者が都出比呂志さんの提案以来認める弥生・期を、高倉さんは・期に含め、・期という呼び名は使っていません。
このように考えが違う人たちが集まって話の筋が通るのか、と心配されるかもしれません。しかし、学問は、違った考え方を闘わせてこそ前進するものです。いろいろな考え方がでている分野こそ、活発に進んでいるといえるかもしれません。
以下に、旧石器(私のいう岩宿時代)・縄紋・弥生の年代観をお話しします。
縄紋人・弥生人とわれわれとのかかわりまず、人類の起源をかりに450 万年としておきます。そして、岡村さんから詳しい説明があると思いますが、人類が日本列島に登場したのが60 万年前であるとしておきます。
この450 万年の人類の歴史、そして60 万年前以来の日本列島の人類の歴史のなかで、われわれはどのような位置を占めているのでしょうか。先端科学の発達は著しく、いろいろな意味でわれわれは頂点をきわめていると考えておられるのではないでしょうか。理性や知性、思いやりの程度なども昔の人ははるかに劣っていて、われわれはその頂点にいると考えがちです。早い話、100 年前、200 年前の人たちよりわれわれは進んでいると考えていませんか。(以下本文へ)