第11回「大学と科学」生命を育む情報−細胞内シグナル伝達の研究、最近の進歩−
はじめに
第11 回「大学と科学」公開シンポジウムは平成8 年度に7 会場で行われています。そのひとつに属する本シンポジウムのタイトルを『生命を育む情報』とつけました。その基調講演として、そのタイトルと等しいような内容をお話ししたいと思います。
もっともこのタイトルについてはシンポジウム組織委員会でも少々異論がありました。
「育む」というと生物の個体発生に限定されるような印象を与えるというものです。しかし実際には、このタイトルは、生命にとって情報交換は絶対に必要なものだということをやや文学的に表現したもので、けっして個体発生をテーマにしたものではありません。
還元主義を超えるものとしての情報伝達以下、ヒトまたはヒトのモデルとしての実験動物すなわち哺乳動物を中心に話を進めます。
哺乳動物は多細胞生物で、ヒトの場合、1個体は100 兆個に近い細胞から構成されています。個体はたえず環境から情報を受容し、それに応答しています。このような外部環境の情報は主に感覚受容器によって受容されます(図1)。視覚、嗅覚、味覚など感覚受容に関する最近の研究の目覚ましい進歩については、本シンポジウムで紹介されます。
一方、すべての細胞には、個体の感覚受容器にあたるもの、すなわち細胞外からの情報を受容する蛋白質が細胞表面に備わっています。これを(細胞膜)受容体と呼びます。受容器または受容体と呼ばれるものの共通の性質は、外側からの情報をうけとり(受容し)、内側へ向かって新しい情報を発信することです。
換言すれば、個体または細胞といういわば閉じた系は、その表層に存在する受容器(体)が外の情報を(それとはまったく異なる)内なる情報に転換するという機能を有することによって、情報という面では十分に開かれた系を形成しています。これは、図1 の表題に示したように、情報伝達学のセントラルドグマとでも呼ぶべき、生命情報の伝達の基本原理です。
図1 では、もうひとつの重要な事実を指摘したいと思います。個体や細胞の“機能”を知ることが生命科学のほとんど唯一の目標であることはいうまでもありません。例えば、細胞の機能はその細胞を構成している無数の分子の働きの集積です。しかし、個体や細胞が生きているかぎり(死んでしまっては機能も消失しますから、どのような場合でもと表現しても同じことですが)、われわれが観察する機能とは情報に対する応答そのものを指しています。応答とは個体の(潜在)能力のほんの一部にすぎません。個体においてはそれを構成する細胞の能力を、細胞においてはそれを構成する分子の働きを足しあわせたものは、機能とは何の関係もありません。(以下本文へ)