日本美術品の保存修復と装コウ技術 その参
小袖によせて
河上 繁樹

はじめに
現在(1999 年11 月)、京都国立博物館では『花洛のモード―きものの時代』特別展覧会を開催しています。
この展覧会では、桃山時代から江戸時代を通じて服飾の中心となった小袖に焦点をあて、当時、ファッションの発信地であった京都で人々がなにを装い、どのような美を求めたのかを探ろうとしています。展示は11の小テーマにわけて、桃山時代から幕末にいたるさまざまな小袖の意匠や技法の変遷がわかるように構成されています。
この定期研修会では、特別展にちなみ、小袖意匠の変遷とその技法についてみていきたいと思います。小袖は、装の仕事とは直接に関係するところは少ないかと思いますが、特殊なケースでは「瑞泉寺裂」のように表具に小袖裂が使用されている例がいくつか知られています。そうした例を含めて、唐
から織・繍箔・辻が花・慶長裂・友禅染など、その文様や染織技法が小袖の歴史のなかでどのように位置づけられるかをみていくことにします。
小袖の歴史は古く、平安時代末まで遡りますが、実際に遺品として残っている小袖は室町時代末以降のものです。もともと小袖は、公家や武家が下着として着ていたものですが、次第に表着化して桃山時代(16 世紀)には男女とも着用するようになります。同時に、さまざまな意匠が生まれました。小袖は人が身につけるものですから、人の好みやその人の生きた社会や時代の好みが端的に表れるのです。そして、小袖の意匠は、の時代特有の染織技術で表現されます。

表具と小袖裂
小袖に用いられている染織品は、小袖のデザインを目的につくられているのですが、それを表具裂に利用する場合があります。もともと異なった目的でつくられた染織品を表具に使いますが、それは小袖裂に特別の由来があって本紙とのかかわりの深い場合にあえて表具裂に使うことがあります。たとえば、図1 の「瑞泉寺裂」は、豊臣秀次(1568 〜 1595)を祀る瑞泉寺に伝わる掛幅の表具で、三条河原で斬殺された秀次の妻妾たちが着ていた小袖を表具に使ったといわれています。本紙は妻妾たちが首をきられる前に詠んだ辞世の句ですから、それにあわせて妻妾たちの小袖を表具裂に使ったというのです。もっとも、この表具裂は一部に秀次の時代よりもずっとあとの小袖裂が使われているため、必ずしも伝承どおりではありません。
別の例としては、表具裂を本紙の時代にあわせて雰囲気をつくろうとする場合があります。図2 の「太鼓打ち童子像」は、桃山時代に描かれた絵画ですので、同じく桃山時代の辻が花裂を表具にとりあわせています。この辻が花裂は、右上の一部に少し継ぎがある以外はすべて1 枚通しで、文様は上から順番に松皮菱、椿と藤、そして襷のモチーフが交互に繰り返されています。この表具裂は、もともと段替の意匠の小袖でした。このような辻が花裂と桃山時代の絵画をとりあわせた表具例がありますが、これは辻が花染がもてはやされるようになる近代以降の表具であると推定されます。
表具に使用される小袖裂はある程度限定されます。本紙と表具裂にいわれがあるような場合を除けば、本紙と表具裂のバランスや調和が重要になります。そのため、どんな小袖裂でも使えるというわけではありません。小袖は、当たり前のことですが着物のかたちを前提にデザインされています。全体があって初めてデザインが生きるようになっているため、小袖の一部を表具裂として使用する場合、文様のとりかたで生きる場合とそうでない場合が生じます。辻が花染のようなものは、文様の大きさが適当であれば、とりあわせやすいでしょうが、寛文小袖は大柄で、これを表具に使ってもデザインはほとんど生かされません。また、友禅染の小袖は、友禅染そのものが絵画的で華やかすぎて本紙と調和させるのが難しくなります。