第19回「大学と科学」今、世界のことばが危ない!−グローバル化と少数者の言語−
言語の違い、認識のちがい
宮岡 伯人
大阪学院大学情報学部教授

1. 言語のはたらきと文化
人間の言語は、まず「文化」という仕組みのなかでとらえる必要があると、私は考えています。ではその文化とは何なのか、となると、じつに多種多様の定義がこれにはあるようですが、「環境」に適応していくストラテジー(戦略)としての側面を無視するわけにはいかないと思います。
今、危機言語と言語多様性の縮小を問題にしようとする場合、おそらく言語のもつはたらき(役割)をどうみるかということがたいせつなポイントになってくるはずです。ふつう言語といえば、コミュニケーション(伝達)の道具に決まっているではないか、とする言語の道具視がきわめて根強く存在しています。確かに、言語が空間も時間も越えてはたす伝達の重要さ、社会生活を営むうえでの言語の不可欠さは、いうまでもありません。また、社会の変化に応じて効率的な伝達の保持あるいは増大をもたらすような変化が生じてくることも事実です。しかしそれでは、人間は単に伝達の道具として言語を生み出し、発達させてきたと考えていいのかどうか、これには疑問がないわけではありません。
人間の使ういわゆる道具(モノ)は、エスキモーがアザラシ漁に使った、巧みな仕掛けのある銛頭(回転銛)から、今日ではもはや一日も欠かせなくなったパソコンの類にいたるまで、文字通りしのぎを削って進化していきます。人間をとりまく環境の厳しい要求(締め付け)に対し、当の集団に一定の行動様式にしたがって適応を図っていく(つまり生き延びていく)手段だからに違いありません。そのような道具、それを用いて営まれる適応戦略という側面からみるならば、文化はおのずから環境適応という目的に強くしばられています。すなわち、直接的な意味で機能的にならざるを得ません。ということはつまり、余分な無駄は許されず、とり得る可能性の幅はかぎられてくる、ということを意味します。
それに対し、言語には、確かに伝達というたいせつな目的がありながら、そのような道具(モノ)には、とうてい許されないような無駄、不規則、曖昧が少なくありません。谷崎潤一郎も、『文章読本』のなかで、非常に不合理なもの、不便なものだというようなことを述べています。
言語が道具としてはそれほどスグレモノでないとすれば、それは(言語以外の)文化のような環境と向きあう適応戦略としての性格が弱いからではないでしょうか。
環境適応とのかかわりでは、言語は間接的な意味でしか機能的にすぎません。つまり語彙(の一部)は別にすると、環境のしばりをうけることは少ない(自由度が高い)はずです。もし言語が道具をはじめとした(非言語的)文化と同じような直接機能性をもつものならば、その多様性ははるかにかぎられているはずです。おそらく言語は、環境適応の戦略としての文化とは本質的に違っていて、その道具性はむしろ副次的なはたらきではないかと考えざるを得ません。
さて、人間が今仮に効果的な道具と適切な行動様式によって環境に適応を図ろうとすれば、そもそも対峙する相手の環境が「カオス(混沌)」のままでは、手のだしようがないはずです。「カオス」のままにしておくわけにはいかず、一定の「コスモス(秩序)」にかえる必要があるはずです。つまりまず、環境あるいはその要素が、どのようなものなのかが「ワカッテ」、はじめて道具・行動様式が決まってくるはずです。物事は、AをAでないものから「ワケル」ことによってはじめて、「分け」つまり「訳」が「ワカル」道理だからです。「ワケル」と「ワカル」は、電話などを「カケル」と「カカル」と同じく、他動詞と自動詞が対になった(日本語文法でいう)「有対動詞」ですが、この分類と認識を対でとらえているのは、日本語の凄さのひとつといえるかもしれません。