脳を知る・創る・守る・育む 8
 私の専門はもともと超音波デバイスや光デバイスですが、学生時代からニューラルネットワークに興味をもっていました。一九八○年代にニューラルネットワークのリバイバルブームがあったとき、学生時代の興味を実現しようと三菱電機で開発していた光デバイスに、脳の情報処理の仕組みを組み込む研究を始めました。本日はそのような話も含め、大きく五つにわけてお話しします。最初に、脳に学ぶ情報処理の研究の歴史について述べます。次に、私は産業界の研究開発の経営に携わっていますので、最近、世知辛い時代になりちょっとした油断で企業の存亡が左右されるようになっていますが、このような不確定性の時代における研究開発のあり方について触れます。第三は、脳科学の目指す産業応用例として私どもの自律ロボットについて紹介します。第四は、自律ロボットに導入できる脳科学の要素技術として、脳に学ぶ感覚、認識、思考、制御のうち、特に感覚と認識機能をとりいれるための私どもの技術を紹介します。最後に、これから産業界と学界がどのように協調して、脳科学の研究成果を産業界に活かしていくかを提言させていただきます。

脳に学ぶ情報処理研究の歴史
 表1は脳に学ぶ情報処理研究の流れをまとめたものです。一九八五年以前は、海外ではマカロック―ピッツ(McCulloch-Pits)のモデル、国内では伊藤正男先生の小脳モデル、甘利俊一先生や福島邦彦先生の数理モデルなどが登場した黎明期です。この時代に脳機能をニューロン単位で理解する素地が確立しました。しかし、工学的応用の観点からは、パーセプトロンの限界説がミンスキー(Minsky)とパパート(Papart)によって唱えられブームが下火になり、知能の工学的実現は、脳に学ぶ情報処理様式から人工知能(AI: Artificial Intelligence)へ移行してしまいました。
 ところが、一九八○年代にふたたびホップフィールド(Hopfield)モデルやバックプロパゲーション(BP)モデルが提唱されました。この時期にはエレクトロニクスの分野でシリコンテクノロジーが飛躍的に進歩していました。したが
って、半導体チップに複雑なモデルを組み込んでニューラルネットワークの学習などを短時間に行うインフラが整っていたため、ニューラルネットワークのハードウエア化が非常に進みました。そのハードウエアのアプリケーションとして、マニピュレータ、歩行ロボット、家電製品が開発されるようになりました。それによって、脳のモデルを実用化する関心が高まりましたが、一部の応用を除いて実用化することは簡単ではありませんでした。ニューラルネットワーク技術はよいといっても、わざわざニューラルネットワークを使う必要もなかったわけです。既存の数理モデルに基づく技術に対する優位性が足りなかったため九○年代になると停滞期にはいりました。これは工学的な応用という観点からの見解です。
 ただし、基本的な数理モデルが構築され、その派生技術の一つとして、統計学習が認識に使われるようになりました。また、強化学習も制御で利用価値が高いことから応用されるようになりました。競争力の高い技術はものになるわけです。現在は脳に戻ろうということで、fMRI(機能的磁気共鳴画像法)の利用技術や、IBMのブルー・ブレイン・プロジェクトなどで脳科学と理論モデルを融合してさらなる性能アップを図る方向で研究が進められています。これからは、脳科学に学ぶ数理、ハードウエアの時代です。脳科学は学際的な分野ですから、さまざまな分野の人が集まって、どうすれば脳が解明できるか、また脳のモデルをつくって産業界にどう活かすかを再度、チャレンジする時代です。
 一九八○年代、産業界はさまざまなかたちでニューロ技術を用いた製品や応用技術を発表しました。光ニューロチップやニューラルネットワークモデルを使った冷暖房、洗濯機、自動車のシフトチェンジ、ニューロLSI、人工網膜LSIなどです。炊飯器や洗濯機、冷暖房などの多くの製品はニューラルネットワークモデルを使わなくてもつくることができますが、ニューラルネットワークという魅力的な言葉を使うとよく売れるために生産されたわけです。これはこれでよいと思いますが、これからはニューラルネットワークでなければできない応用製品や、ニューラルネットワークのハードウエアの研究が必要です。