ブレインサイエンス・レビュー2007
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はじめに 神経幹細胞は、発生過程の中枢神経系においてニューロンやグリア細胞を供給するだけでなく成体の脳の機能維持にも積極的に関与していると考えられる。哺乳類成体の脳においては、側脳室周囲から嗅球へ向かう部位と海馬歯状回部位の2 つの領域で新しいニューロンが一生涯を通して新生している。このような新生ニューロンは、少なくともげっ歯類においては既存の神経回路に機能的に組み入れられていることが示されてきた。このニューロン新生の際の母細胞として、また近年の再生医療研究のうえで重要な細胞として、神経幹細胞に注目が集まっている。Invitro での研究により、げっ歯類だけでなくサル・ヒトを含む霊長類の成人脳においても多分化能と自己複製能を特徴とする神経幹細胞が存在し続けることが立証されているが、その中枢神経系での分布や、神経幹細胞を維持するための遺伝子発現の制御機構については依然不明な点も多い。本稿では、成体の神経幹細胞に関する研究の現状と、我々が行っている神経幹細胞に強く発現する遺伝子の同定に関する研究について概説する。 1.Cajalのドグマ 「いったん発達が終われば、軸索や樹状突起の成長と再生の泉は枯れてしまって元に戻らない。成熟した脳では神経の経路は固定されていて変更不能である。あらゆるものは死ぬことはあっても再生することはない」(Santiago Ramon y Cajal)。 19世紀末の著名なスペインの脳解剖学者Ramon y Cajal が、1928年の論文のなかで「成体哺乳類の中枢神経系は損傷をうけると2度と再生しない」と結論して以来、中枢神経のニューロンは新生、増殖しないという定説が100年間まさにドグマ(教義)として信じられてきた。 このドグマに反する実験的な結果が、1965年、Altmanによって提示された。彼は成体ラットの脳にトリチウム標識したチミジンを投与すると、海馬と脳室周辺の細胞にチミジンが取り込まれ集積することを発見した。チミジンは分裂増殖している細胞に取り込まれるため、この結果は成体ラットで神経細胞の増殖が起こっていることを示唆していたが、当時は特異抗体などを用いたニューロンとグリア細胞の識別法がなかったこともあり、多くの研究者は成体ラットの脳で生まれた新生細胞はグリア細胞が分裂したものと解釈し、ニューロンの産生の仮説は否定された。当時の段階では、細胞分裂がほとんど起こらない中枢神経系の内部にニューロンを産生するような前駆細胞・幹細胞が存在するという概念はなかったため、成体の脳でニューロンが増えているとすれば、分化を終えたニューロンがそのまま分裂することを意味しており、これは当時の神経科学の研究者たちにとっては想定できないことだった。 2.神経幹細胞の発見 1980年代、Nottebohmらがカナリアが季節性にさえずり(歌)を憶える際に脳でニューロンが生まれることを発見して以降、中枢神経におけるニューロン新生が注目されるようになった。1992年、ReynoldsとWeissは、成体マウスの脳室下層(SVZ)からとりだした細胞に成長因子(EGF)を添加して培養すると、分裂増殖しながらニューロンやグリア細胞を生みだす細胞集塊(neurosphere)の分離に初めて成功した。このneurosphereの発見は、成体マウスの脳に未分化な細胞集団が残っていて、これらの細胞群が増殖・分化することで成体の中枢神経系でもニューロン新生(neurogenesis)が起こっている可能性を初めて示唆した歴史的なものだった。その後さらに脳内の主な3 つの細胞種(ニューロン、アストロサイト、オリゴデンドロサイト)を産生する能力(多分化能)と、細胞分裂によって自分自身も複製する能力(自己複製能)をあわせもつ細胞、すなわち神経幹細胞(neural stem cell: NSC)が成体の脳に存在することが証明された。こうして長い時を経て、Cajal のドグマは否定された。 その後、より高等な哺乳類である真猿類のマーモセットの海馬やマカクザルの脳室下層でも成体のneurogenesisが起こっていることが次々と発見された。それでも、中枢神経の再生は種特異的な現象で、ヒトにおいては直接的な証拠がないために起こり得ないものとする研究者も多くいた。これは、高度に発達した人間の脳では、記憶はニューロン間のシナプスを介した回路の編成(memory engram)によって保持されており、新しいニューロンの付加は必要とされないという、人間の記憶のメカニズムに対する漠然とした既成通念があったことも要因だったと思われる。 しかし、1998年にErikssonらはこの通念を破った。彼らはがんを発見するためにBrdUを投与されていたがん患者の剖検脳で、BrdU抗体とニューロンマーカーNeuNの二重染色を行い、海馬においてBrdUを取り込んで分化したニューロンが存在することを見い出した。これによって、人間においても生涯を通じてneurogenesisが起こっていることが立証された。さらに最近の研究によると、我々の中枢神経系はさまざまな外的環境の変化に柔軟に対応できるように、多様なレベルで制御をうけている可能性が示唆されている。成熟した脳は外部からの刺激入力に対して、長期増強(long-term potentiation: LTP)などの電気生理学的な神経回路の反応の可塑性を発揮するだけでなく、ニューロンそのものをダイナミックに入れ替え、脳の一部を作り替えてしまうような形態学的な可塑性も備えていると考えられるようになった。 3.成体脳のneurogenesisのメカニズム 成体で起こるneurogenesisは、は虫類、両生類、鳥類から霊長類に至る脊椎動物の進化の過程を越えて保存されてきた現象である。下等な脊椎動物であるトカゲの成体脳では、損傷などに対してそのほとんどの領域でneurogenesisが起こり、脳の大部分が再生・再構築される。一方、哺乳動物においては成体のneurogenesisは古いニューロンを新生ニューロンで置き換えるようなタイプにかぎられており、しかもneurogenesisが起こる部位はきわめて限定されている。つまり、進化の過程で、脳の形態的、機能的複雑さが増すのと引き換えにneurogenesisの程度が大きく制限されてきたと考えられる。成体哺乳動物のneurogenesisが起こる部位は、正常な状態では海馬歯状回の介在ニューロンを新生するsubgranular zone(SGZ)(図1)と、嗅球の介在ニューロンを産生する側脳室前角周囲のsubventricular zone(SVZ)(図2)の2つの領域にほぼ限定される。 しかし、第3脳室周囲や黒質近傍の中脳水道周囲、脳幹の迷走神経背側核などほかの脳の部位でもニューロン産生が起こっているとする報告もあり、さらなる研究の余地がある。また、虚血やてんかん発作などの脳傷害や、さまざまな神経変性疾患などの病的な状態ではneurogenesisが刺激されるとする報告もある。 神経幹細胞はこれらの部位のneurogenesisの源として働く細胞であり、またneurogenesis の頻度・量を調節している細胞でもある。現在のところ有力な説として、側脳室の背外側部の線条体と脳梁に挟まれる・・・ |