脳を知る・創る・守る・育む 5
私がこの十年の総括をお話しして、その後、金澤先生から、これから十年の夢を描いていただくことにします。
脳科学のこの十年の進歩には目覚ましいものがありました。十年間に起こったことを短時間でまとめることは困難ですが、ごくかいつまんで申し上げることにします。その際、手近な材料として私どもの脳科学総合研究センターでの研究結果を示すことが多くなりますが、これは便宜上そうさせていただくもで、その点をご容赦いただきたいと思います。私のあと各先生から本格的、専門的なお話がありますので、ほんのさわりをご紹介させていただきます。
「脳を知る」分野の進展
「脳を知る」には、異なった二つの方向があります(図1)。脳を構成している細胞、その細胞をつくる分子というように還元論的に深く進む方向と、一千億個の神経細胞からなる複雑なシステムとしての脳を対象にする統合的な方向とです。最初に、前者の分子→細胞→脳という方向についてお話しします。
細胞のなかには電気的・化学的なさまざまな信号(シグナル)があり、それがどう伝わっていくかについては、非常に大きな知識の進歩があります。それを可能にしたのが、多様で目を見張る細胞技術の発達です。シグナル伝達の背後にはいつも遺伝子が働いており、遺伝子が一種の黒子のように、各種の化学物質を動かしてシグナル伝達を担っています。その遺伝子の働きを操作する方法もいろいろと発達してきました。その結果、神経細胞、ニューロンのなかで働いている過程が実に複雑・精妙なものであることが明らかになり、その内容がさらに細かく理解できるようになってきました。
細胞技術のひとつとして、宮脇敦史研究室から二〇〇一年末に発表され、世界的に好評を得て、今年四月から技術供与を公開したものがあります。四ヵ月間に世界中から百五十件ほどの要請があり、供与を行っています。それは、ミロのビーナスにちなんで「ビーナス」と名づけられた、特別な蛍光色素です。クラゲの一種から抽出した成分をもとに、長年かかって開発されたもので、この開発には、米国に長くおられる下村脩さんが大きく貢献されました。下村さんは、各種のクラゲから色素を抽出し、その色素の分子構造を少しずつかえて、性質の変化を調べておられました。
宮脇さんの開発したビーナスは、普通の蛍光色素に比べて百倍ほど強い効果を示します。しかも、ビーナスをコードする遺伝子をジーンガンで細胞に打ち込むと、一時間か二時間で発現し、細胞が青く光りだします。この色素は、カルシウムと反応して光る性質を有することから、たとえば細胞外に濃度の高いカルシウムを与えて、カルシウムを細胞のなかに取り込ませると、ふわーっと光ります。非常に画期的な色素で、生きている細胞の活動を観察することができます。この場合、カルシウムの流入の様子がわかります。このような細胞活動の可視化技術が、現在脳科学の分野で重要な技術となっています。