〈歴史の証人〉木簡を究める
はじめに
松村 恵司 奈良文化財研究所所長


おはようございます。奈良文化財研究所(以下「奈文研」と略す)は、平城京遷都一三○○年の二○一○年から東京で講演会を開催しており、今年で五回目となりました。この東京講演会は、奈文研の日ごろの活動、調査研究の成果を広く皆様にご紹介するための企画です。毎回切り口をかえて文化財研究の魅力・面白さ・楽しさなどをお伝えしようと考えております。昨年は奈文研創設六○周年を記念して『遺跡を探り、調べ、いかす』というタイトルで開催しました。今年も平城宮跡発掘調査部が昭和三八年に開設されてから五○年、また、飛鳥藤原宮跡発掘調査部が昭和四八年に開設されてから四○年の節目の年にあたります。そこで今回は、両発掘調査部がこれまで進めてまいりました発掘調査のなかで最大の成果の一つである「木簡」をとりあげ、木簡の魅力を皆様にお伝えしたいと考えております。
木簡が初めて平城宮で発掘されたのは昭和三六年(一九六一)のことです。平城宮の北側にある大膳職跡から四○点ほどの木簡が出土したのが最初です。以来、半世紀が経過し、現在、奈文研が所蔵する木簡点数は、なんと二四万五千点に達しております。文献史料の絶対数が少ない日本の古代史において、今や木簡はなくてはならない歴史資料となり、古代史の世界の広がりと奥行きを急速に広げております。
話はかわりますが、私どもは平城宮・藤原宮の発掘調査を、考古学や文献史学、庭園史、建築史といった専門の異なる研究員がチームを組んで、それぞれ三か月交替で一年中行っております。しかし、なかには、いくら掘っても木簡に当たらない研究者がおります。文献史学の研究者で、奈文研で木簡研究をしようと意気込んできたものの、ほとんど木簡を掘り当てられずに大学にでられた方もおられます。当たる人、当たらない人、「木簡は人を選んで出土する」という根拠のない話が、奈文研ではまことしやかに語り継がれています。
また、木簡は、出土するときも選んでいるようです。二○○一年に、藤原宮の朱雀門をでてすぐ東側、左京七条一坊西南坪の発掘を行ったところ、池状の遺構から一万三千点にのぼる木簡が出土しました。大宝元年、大宝二年の年紀をもつ木簡群で、大宝令が施行された七○一年からちょうど一三○○年ぶりに、大宝令の施行一三○○年を慶祝するように姿を現した木簡群です。同じように、さきほど紹介した昭和三六年に大膳職から出土した四〇点のなかにも年紀が書かれた木簡が四点あり、天平宝字五年と書かれたものが一点、六年と書かれたものが三点ありました。このうち、古い天平宝字五年は西暦七六一年にあたり、最初の木簡発掘がちょうど一二○○年後の一九六一年にあたるという不思議な因縁もございます。
今日は学術的な話が中心で、このような話は紹介されないと思いましたので、あえて冒頭にご紹介させていただきました。私は木簡に当たるほうで、これまで一万点以上、発掘しています。木簡の出土には慣れていますが、実際に遺跡から木簡が出土しはじめると、いつもわくわくどきどきします。木簡は、地下から届けられた手紙、時を超えて古代から届けられた手紙のような感動と興奮をもたらす資料です。本日は、そうした木簡の魅力を、その発掘から整理研究、そして木簡の記録法・保存方法など奈文研が半世紀にわたって培ってまいりました木簡研究のノウハウをご紹介したいと考えております。本日の講演会を通しまして、皆様も木簡研究の魅力を堪能していただければ幸いに存じます。どうぞよろしくお願い致します。